2014年01月17日

小野田寛郎元陸軍少尉死去。敬礼する姿が忘れられない

16日午後4時29分、東京都内の病院で、元陸軍少尉の小野田寛郎(おのだひろお)氏が亡くなられた。91歳のご長寿だった。

小野田寛郎氏は、第二次世界大戦が終結し、日本が敗戦したことを知らずに一人フィリピンのルバング島で戦い続けていた。

告別式は近親者のみで執り行うという。

死因は今のところ不明。

小野田寛郎氏は1942年に若山歩兵第61連隊に入隊した。その後1944年に情報員の任務を与えられてルバング島に派遣された。

しかし任務解除命令が届かず終戦を知らなかったため、ジャングルに潜伏し続けた。

1951年に帰国した元日本兵の情報によりその存在が知られたが、作戦解除命令が無い、ということで、部下と共にジャングルに留まった。

ということは、この時点では彼は一人ではなく、他にも日本兵が生きていたということだ。彼らが共に帰国出来なかったことを思うと、心が痛い。

ようやく1974年3月になると、元上官らがジャングルに向かい、任務解除命令を伝えた。

上官からの命令を受けた小野田寛郎氏は、命令に従いジャングルから姿を現したため、救出され帰国した。

帰国後、激変した日本に馴染めず、翌年には兄を頼ってブラジルに移住。そこで牧場を開拓することになる。牧場経営は10年かけて成功させた。

ところがその後、ブラジルから祖国を見つめていた小野田寛郎氏はある思いを持つ。

「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」

そして決意する。

「祖国のため健全な日本人を育成したい」

日本に「小野田自然塾」というサバイバル塾を設立し、ブラジルとの往復を行いながら、高齢にもかかわらず講演活動やキャンプ活動を通して逞しく生きることを教えていた。

その際、日本での活動拠点として都内にマンションを購入していたが、そのマンションの価格が暴騰し、あっという間にブラジルで築いた財産を上回るという体験をしたことで、日本の将来に危機感を持ったと伝えられている。

ちなみにブラジルの牧場では、肉牛1800頭を飼育していた。

近年は都内で暮らしていた。高齢でも精力的に講演活動を行っていたが、昨年の12月から体調を崩し、今年の1月6日には入院していた。

ところで小野田寛郎氏は、帰国後政府から見舞金100万円を贈呈されたが、これを拒否している。しかし強引に渡されたため、方々から寄せられた見舞金と合わせてまとめて靖国神社に寄付した。

天皇との会見も計画されたが、それも断った。

「自身が勝手に潜伏していたので、陛下は声の掛け様が無いだろう」

と語ったという。

自然な流れとして、保守系活動家でもあった。日本を守る国民会議、日本会議代表委員、社団法人日本緑十字社理事などを歴任している。

また、反日韓国人(若い層)からも一時的にその軍人精神は尊敬されたが、従軍慰安婦問題では日本の責任を否定する立場に立ったため、非難されるようになった。

さらに政府見解と異なる論文を投稿して更迭された田母神俊雄元航空幕僚長を支持し、「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」の発起人になっている。

また、中国の『鳳凰網』の歴史総合ページでも紹介されると、反日的書き込みが多いとされる書き込み欄でも、

「真の軍人だ」
「この兵士の精神を全世界が学ぶべきだ」
「大和民族は恐るべき民族。同時に尊敬すべき民族」

など、僅かに好意的な書き込みが多かったという。



posted by しげぞう | Comment(2) | TrackBack(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
しげぞうさん、こんばんは。
覚えてますよ。年老いたお母様が現地に行かれ
マイクで、小野田さんの名前を呼んでいらっしゃいましたね。敬礼の姿は歴史の一瞬を
垣間見たように思ったものでした。
出てこられた時は、みんながテレビを観て
いたのではないでしょうか、街を歩く人が
あまりいなかった記憶があります^^;
Posted by spacelight at 2014年01月17日 22:47
戦争の善悪は別として、一人の人間が、過酷な環境の中で長い年月を己の任務に忠実に生き抜いた結果としてできあがった彼の敬礼姿は、理屈抜きで世界中の人達に感銘をもたらせたのでは無いでしょうか。
と思っています。
Posted by 管理人 at 2014年01月17日 23:37
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