すっかり長い寄り道をしてしまった。
しかし、チュニジアで起きたジャスミン革命を見ると、何とも現在エジプトで起きている騒乱そっくりではないか。
ということで、慌ててエジプトに戻りたい。
このブログでは『エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第一部』から『第三部』までに最近のエジプトの歴史を非常に荒っぽくトレースした。
そして前回、『第四部』で、このたびのエジプト騒乱に強い影響を与えたと思われるチュニジアの「ジャスミン革命」を眺めておいた。
そろそろ現在のエジプトを眺めてみたい。
ムバラク大統領により経済自由化を進めてきたエジプトの現在の経済成長率は、外務省の発表では2010年度で5.2%と高い。しかし失業率を見ると、8.8%と高く、これもチュニジアと同様、20代での失業率はなんと2割を超すのではないかと言われている。
これでは高い経済成長の恩恵が、一部に偏っているのではないかとの憶測をもたれても仕方がない。つまり、格差社会と腐敗が起きているとの憶測が、国民の間で不満の蓄積となり、自分たちはいいように搾取されているという感覚をもたらしてしまう。
そして政権が独裁に近い長期政権であれば、なおさら腐敗の臭いがぷんぷんする。
物価も高く外務省発表の2009年度の物価上昇率は16.5%だ。
国民の不満はチュニジアのジャスミン革命前夜に似ているであろう。
しかもムバラク大統領の政権は独裁と言えるもので、彼の在任中には野党関係者が弾圧される始末。
そこにきて、憶測の域を出てはいないが、ムバラク大統領は次の大統領選挙戦(2011年秋)で、なんと次男に世襲させようと企んでいると言われ、そのことがまた国民の不信感を強めている。
この部分は、チュニジアでも無かったことだ。
ムバラク大統領は、昨年チュニジアで起きたジャスミン革命にびびった。
同時に国民は、チュニジアで起きたことを見て、国民の蜂起が権力者を追放することができると知ってしまった。
ムバラク大統領は本当にびびったが故に、「チュニジア国民の選択を尊重する」などと政府の見解として発表した。エジプトはチュニジアとは違うよね、ね、ね、と言っているわけだ。
しかし本当のところは、びびりまくりだ。
そして大統領の悪い予感は当たる。
首都カイロには、ジャスミン革命が起きたチュニジアの大使館がある。そこで14日、デモが起きた。
なんとジャスミン革命の発端となった焼身自殺をまねて、エジプトでも17日、18日とカイロ他で3人が焼身自殺を図った。
その後も低賃金に絶望した男が21日に焼身自殺を図るなど、政府への抗議の意味を込めた自殺が相次いだ。
ジャスミン革命は間違いなくエジプトに飛び火したのだ。
そしてジャスミン革命と同様、Facebookを通じて、デモの呼びかけが行われた。この呼びかけは、民主化運動を支持する青年組織や、野党勢力が中心になった。
22日には、デモの参加表明を行った人数が5万人を超える。その後8万人を超え、9万人に達しようとした段階で、政府は慌ててデモを防ぐために25日を休日に定めた。
そしてこれは逆効果になると思うが、FacebookやTwitterへのエジプトからのアクセスを遮断してしまった。
気がつくと、携帯電話の回線も一部使えなくなっていた。
そして迎えた25日。
休日にしたところでデモの発生は抑えられなかった。カイロ、アレクサンドリア、スエズでデモが行われた。その参加者およそ1万5千人。
デモが要求するところはムバラク大統領の退陣である。この辺りからはテレビでも放送されているとおりだ。
政府は武力を用いて治安維持に当たった。催涙弾を使い、放水車をつかい、ともかくデモを散らそうと試みた。
そして初日早々に市民2人が死亡した。負傷者は多数、拘束者は500人に上った。
この状況を見て、野党は次の大統領選にムバラク大統領が出馬しないように要請した。第二代大統領のナセル以降慣例化されていた大統領の終身制を終わらせると言うことだ。
26日、内務省が集会禁止を発表したが、デモの呼びかけは止まることがなかった。
引き続き3000人規模のデモがカイロやスエズで行われた。
デモはエスカレートする。与党の事務所に火焔瓶が投げ込まれ、県庁舎は放火された。
街にはあちらこちらで炎が上がった。治安部隊も応戦した。そしてデモは燎原の火のごとく広まっていった。
野党もこのデモを利用し始めた。
27日にも放火は続いた。スエズの警官隊詰め所が燃えた。
既に6人が死亡し、1200人が拘束された。
デモの広がりは、シナイ半島北部にも広がった。そこでは長いこと差別を受けてきた遊牧民たちが警察署を囲み、とうとう銃撃戦に発展してしまった。いよいよ民衆側も武装し始めたのだ。
28日になると、単に民衆のデモにとどまらず、野党勢力や潜伏していたイスラム主義者たちも表だってきた。
野党勢力は金曜日の礼拝に集まる人々を扇動し、デモを行うことを呼びかけた。
また、ムスリム同胞団がデモを支持することを表明した。ムスリム同胞団は、イスラム原理主義組織であり、最大野党勢力である。エジプトが共和制を敷き、近代化と欧米寄りの政策を始めた頃より、常に反逆の機会を狙っていた勢力だ。
いよいよ当局もカイロ市内に軍の特殊部隊を配備するなど、その警戒感をさらに高めた。
礼拝に集まった人々は、そのままムバラク大統領退陣要求を叫ぶデモに加わった。その数も、各地で数万人とふくれあがった。
この民衆の行動により、この日は「怒りの金曜日」と名付けられた。
しかしこの辺りに来て、妙な光景も見られるようになる。テレビなどでも移されていたが、鎮圧部隊として出動した軍隊の中には、デモを行っている民衆と握手をしたり、ハグをしたりする者が現れた。
また、警官隊の中にも、制服を脱ぎ捨て、デモに参加する者が現れだした。
これはムバラク大統領にとってはぞっとする光景であろう。自分を守るべき銃が、もしかすると自分に向けられるかもしれない。ジャスミン革命はここにも影を落としているのではないか、と。
そしてこの日の民衆の行動はエスカレートし、放火や略奪が相次ぐ事態になる。
また、軍もヘリコプターや装甲車が出動し、街はさながら戦場と化した。
死者は既に38人に上り、負傷者は1000人を超えるとされる。
いよいよ与党の中からも、大統領にもっと思い切った判断をするように求める声が出始めた。
29日、デモが始まってから初めてムバラク大統領はテレビに出演し、演説を行った。そして以下の約束を行う。
・アフマド・ナズィーフ首相以下全閣僚を解任する。
・民主化する(今頃?)
・経済改革を行う(今頃?)
ただ、重要なことが含まれていない。つまり、自分自身の退陣には言及しなかった。
そのため、この放送の直後、再びデモは激しさを増した。死者は70人を超えたという。
それでもムバラク大統領は新首相としてアフマド・シャフィクを指名し、副大統領にアル=リファーイを指名した。
しかし、民衆はジャスミン革命を見てしまった。ムバラク大統領が退陣するまでデモを止めることは無いのではないか。
──と、ここまで書いて、何とかこのたびのエジプト騒乱の背景が、ちらりと見えた気がした。
従ってシリーズ化してしまった『エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景』全五部をここで一端終了とし、この後は通常のブログスタイルに戻りたいと思う。
勿論、エジプト騒乱についてのニュースは引き続き読み続けたい。
とても読みやすく分かりやすかったです。
どうもありがとうございました。
コメントありがとうございました。
現代エジプトのことを知らない自分のために、興味をもって書きつづりました。
「分かりやすい」というお言葉を頂き感激です。
エジプトはムバラクが耐磁すればしたで、今度は親米派のエルバラダイ氏とイスラム原理主義反米派のムスリム同胞団の反発、そしてやはり親米の郡部と、まだまだ混乱は続くと思われます。
ということで、今後も見ていきたいと思います。