2011年01月30日

エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第四部。

前回の第三部で、ムバラク大統領が再任を繰り返して事実上の独裁政権を築いていることと、大統領を世襲するのではないかという噂が出ていることを紹介した。

そして、2010年にチュニジアで起きたジャスミン革命に、今回のデモの原因を探れないか寄り道すると書いたので、この回ではチュニジアのジャスミン革命を撫でてみる。

まずこの革命の名称だが、これはチュニジアを代表する花がジャスミンということから付けられた名称だ。

チュニジアの正式名はチュニジア共和国だが、これ以降はチュニジアと表記する。

北アフリカで地中海に面しているところはエジプトと同じ。但しエジプトとの間には、リビア(大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)がある。そう、あのカダフィー(ムアンマル・カッザーフィー)のリビアだ。

地中海の対岸はもうイタリアだ。

さて、このチュニジアでのジャスミン革命だが、だいたい革命の背景には経済状況の悪化があるものだ。

安定していると言われていたチュニジアだが、最近はどうだったのか。

経済成長率で見ると、悪くはない。昨年の経済成長率は3.8%と言われている。

ただし、この成長率の割には失業率が高かった。外務省が発表しているチュニジア国立統計局の数値では失業率は14.7%となっている。ちなみに日本の2010年度の失業率は5.1%だから、チュニジアの失業率の高さがわかる。

しかしこの失業率は全体でならしたものであり、若者層に限ると、なんと30%近いと言われているのだ。これはひどい。ちなみに外務省発表の数値を確認すると、大卒以上の失業率が20%を超えているとなっている。

つまり、経済成長しているにも関わらず、もっとも消費意欲が高い年齢層の失業率が驚くほど高いのだ。

これは社会を不安定にする。

つまり、経済成長している旨味を、他の何者かが得ていると憶測されてしまうのだ。その結果、働き盛りの年齢層に不満が溜まるはずだ。

そしてその不満を、ネット(Facebookなど)が国民のあいだで共有化させるという社会現象も背景にあったと憶測されている。

革命の狼煙が上がったのは、2010年の12月。

チュニジアの中部シディブジドの街頭で、果物や野菜を売り始めた若者がいた。26歳の男性である。彼は失業中だったため、生活費を稼ごうとしたのだ。

そこに警察が現れ、果物や野菜を没収した。販売許可が降りていないという。

この若者のかねてからの社会に対する絶望と怒りが爆発した。どうしてこんな目に遭わねばならないのか、どうやって生きて行けというのか、世の中の不公平は仕方がないのか、なんとベンゼンをかぶり、自分に火を付けて自殺してしまったのだ。

前述した通り、この世代の失業率は極端に高い。そのため、この若者と同様にして日々の糧を得ていた失業中の若者は他にも多くいた。とにかく大学まで卒業しても職が無いのだ。

この若者の体を焼いた炎は、全国の若者を中心とした社会に不満を持つ人々の心にも飛び火した。

権力者たちは腐敗している、街頭で野菜を売るなどの職業の権利はある、発言の自由は何処に行った、などとこれまで蓄積された不満が爆発するかのように、全国でストライキやデモが行われた。

始めは若者中心だったこれらの活動が、次第に広い年齢層に飛び火した。

デモも過激になり、政府の治安部隊との衝突で死者が出てしまった。

国民は激昂した。長期にわたるザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領(これ以降は単にベン=アリー大統領と表記する)政権(ムバラク政権に似ているな)へのデモに姿を変えていった。

年が明けた2011年の5月。焼身自殺を図った青年の葬儀が行われた。

葬儀は行列となりかけたが、それを警察が阻止した。

このことにも激昂した民衆は暴徒と化し、都市タラの警察署や政府関連庁舎、しまいには銀行にまで火を放った。

この炎も飛び火し、他の街でも炎が上がり続けた。

その炎の合間を、さらに暴徒化したデモが繰り広げられた。1月8日の夜からタラやカスリーヌといった都市で行われたデモで、治安部隊は民衆に発砲してしまい、野党側の発表によると、25人は死亡したという。

国民が政府に殺され始めたのだと、民衆は認識した。

10日にも警察署などへの放火が続いたため、警官隊も民衆に発砲。4人の市民が死亡した。

もはや政府は民衆を殺している、という絵になった。

治安のために武器を使えば使うほど、国民は恐れるどころか、怒りを強くした。11日にも政府関係庁舎が焼かれ、エスカレートした市民は、商店街での略奪行為まで行うに至った。

もはや街は無法地帯になった。

この後も警官隊の発砲で、市民に死者が出、ついには一説では50人以上が死亡したとされた。

事態の収拾のため、ベン=アリー大統領は閣僚の一部刷新を図り、政府関係の設備の警備を軍隊により強化した。

さらに、全国の高校、大学を閉鎖。

そして民衆を懐柔するために、このたびの暴動はテロリストによるものだったと発表しながらも、本当はその原因を知っているので、今後二年間で30万人の雇用緊急措置を採ると発表した。

なんとも現実味のない政策である。

各政党からは市民への発砲を禁止しろとの要請もあり、ベン=アリー大統領は弱腰になっていく。

12日には一部の地域の夜間の外出禁止令も出た。

13日にはカシム内部大臣を更迭。治安対策がなっていない、という理由だ。

そして市民の怒りを静めるために、デモで拘束した市民を釈放することを表明。

しかしデモは静まらず、その後も死者は出て、とうとう首都でも警察隊が一人の男性を射殺してしまった。

ベン=アリー大統領はさらに国民をなだめる発表を続ける。

次回(2014年)の大統領選挙にはもう、立候補しません、と発表(しかし任期は満了してやるぞという意向も示した)。しかし、国民にとってはこれは当たり前のことだった。何故かというと、チュニジアの憲法では、75歳以上は大統領に立候補できない。ベン=アリー大統領は既に年齢オーバーだ。全く国民を馬鹿にしている、とさらに怒りを煽ったのではないか。

また、国民の生活を楽にするために、食料品高騰を引き下げると表明した。そんなことができるのか。

さらに、言論の自由拡大と共に、インターネット閲覧の制限を解除することを表明し、治安部隊によるデモ隊への発砲も禁止したと発表した。

もうベン=アリー大統領は、なりふり構わない状態に追い込まれ始めた。

さて、これで国民も少しは頭を冷やすだろう、などと思っていた翌日の14日、内務省の前に5000人のデモが現れ、ベン=アリー大統領の退陣を要求した。

いや、デモだけではない、ストライキも行われた。

しかも、禁止したはずのデモ隊への発砲も止むことがなかった。

ベン=アリー大統領は嘘っぱち野郎だ、今すぐ辞めろ、と国民の怒りは収まらない。

──長くなりすぎているので、先を急ぐ。

ベン=アリー大統領は非常事態宣言を行い、全国で夜間外出禁止令を発令。そして内閣総辞職と総選挙を半年以内に前倒しすると発表。

そしていよいよ、ベン=アリー大統領にとって致命的な事態が起きたのは、国軍の離反だった。

慌てたベン=アリー大統領は14日国外脱出。軍部の離反は怖い。奪われた銃が、自分に向けられたも同然だからだ。

フランスに逃げよう──そう考えたが、サルコジ大統領に断られてしまう。

慌ててサウジアラビアに亡命した。

ここに革命はなった。ベン=アリー大統領政権は崩壊した。

そう、国民が蜂起すれば、時の権力者も追い出すことができる、ということを、エジプトの人々にも見せてしまったのだ。

しかし、チュニジアの社会はまだ安定していない。

とりあえずチュニジアのジャスミン革命については、ここまでにしておき、次の投稿でエジプトに戻らねば。



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