2011年01月29日

エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第二部。

前回第一部の投稿では、エジプトで起きているデモの背景を知りたくて、かなりあらっぽく近代のエジプトを振り返ってみた。

そして、なんとか(強引に)サダト大統領(アンワル・アッ=サーダート)までこぎ着けた。

このサダト大統領にたどり着いたとき、ようやく現在のエジプト国民の不満の始まりにたどり着いたような感触を得た。といっても、前回書いたように、ことはそれほど単純ではなく、遠くは1952年に王制を廃止してエジプト共和国が成立した時に押さえ込まれたイスラム主義の運動も、影を落としているような気がしてならない。

が、今回のデモの直接的な原因ではなさそうなので、深入りしなかった。

さて、サダト大統領の時代。やや社会主義的だったナセル大統領(ガマール・アブドゥン=ナーセル)の経済政策を、自由主義へ向けていく。

そして押さえつけていたイスラム復興主義運動も解禁するが、これが後にサダト大統領の自由化と矛盾することになる。

ともかくここでは勢いを付けてシリアと組んでイスラエルと戦争する。第四次中東戦争だ。

だが、今度は勝った。何せ武器もソ連製のすごいのを使ってやった。それに用意周到なサダト大統領は、アラブ諸国と連携をとり、イスラエルの注意力を散漫にさせることにも成功した。

そしてなんと言ってもずるいのは、いや、戦争とはそういうものだが、ユダヤ教の休日であるヨム・キプール(贖罪日)である1973年10月6日に奇襲攻撃をしかけてやった。

勝てば官軍、一躍サダト大統領は国民的英雄になる。

ただ、サダト大統領は、この戦争の目的として、勝った上でのイスラエルとの和平を望んでいたようだ。そうしないと経済成長政策に集中できない。

ということでアメリカに接近し、ジミー・カーター大統領が仲介したあの有名なキャンプデービッド合意に至った。

おっと、ちょっと話がずれ始めているので、戻す。

さてまたもイスラム主義がサダト大統領に反発するのだが、今度は、イスラエルとの和解によりノーベル平和賞なんかもらってしまったサダト大統領を、「パレスチナのアラブ人同胞に対する裏切り」という位置づけにされてしまったのだ。

全くこの辺りの地域は、どちらに転んでも非難囂々だ。

しかもサダト大統領が進めた経済の自由化は、そのまま格差社会を生み出してしまった(小泉・竹中政権を思い出して欲しい。日本の庶民はおとなしいが)。貧富の差が広がると、社会は不安定になる。

そして富裕層や特権階級が出てくると、当然腐敗がはびこることになり、国民はそれに敏感になる。

よりによってそんなときにサダト大統領の下にお客さんがやってきた。イラン革命から逃れてきたパーレビ皇帝だ。亡命してきちゃったよ、と。

その後パーレビ皇帝はアメリカに向かったが、もう遅い。イスラム教徒たちを中心にサダト大統領への反発が強くなった。何しろイランではホメイニ師がイラン革命を起こした。

そして1981年の10月6日。サダト大統領は戦勝記念パレードを観閲中だった。このとき、サダト大統領は既に自分の死を友人に予告していたという。

イスラム復興主義過激派のジハード団に所属する兵士が近づいていた。サダト大統領は彼が敬礼をするのだと思い、起立して待った。しかし兵士が行ったのは、敬礼ではなく、手榴弾を投げつけることだった。

こうしてサダト大統領は暗殺された。社会は既に混沌としている。

このとき副大統領だったのが、ムハンマド・ホスニー・ムバーラク。これもまた日本で通常使われているムバラクと表記する。

このムバラクは、このときに大統領に就任した。いよいよ現在に向かう。

と、ここで第二部終わり。一息ついたら第三部を書いてみようっと。



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