2011年01月29日

エジプト全土にムバラク大統領退陣要求デモの背景:第一部。

エジプトで大規模なデモが起きている。

その要求はムバラク大統領の退陣要求だ。

いったいエジプトで何がおきているのか、なんだか一度に書けそうも無いので、全部で五回に分けて投稿することにした。とりあえず、浅く浅く、土壺にはまらない程度に見てみよう。

まず、私自身の頭の中を整理せねばならない。そこで、外務省のサイトやWikipedia、その他多くのネット上の資料を参照しながら、まとめてみることにした。

ここでいきなりムバラク大統領がどんな人物か、という前に、エジプトの状況を軽く撫でるようにかつ急ぎ足で見ておきたい。

エジプトの歴史をわかる範囲で遡り始めると、それこそピラミッドの謎にまで向かってしまい、泥沼にはまってしまう。

それに今回のデモは、大統領の退陣と民主化を要求しているので、最近のエジプトの成り立ちを見ておきたい。特に共和制になった辺りにデモの遠因があるのではないかと感じたので、その辺りからトレースしてみたい。

なおエジプトは日本での正式名称は「エジプト・アラブ共和国」だが、面倒なので、このブログでは通称の「エジプト」を使うことにする。

エジプトの近代化はどの辺りから始まったのか。

どうもエジプトが近代国家を意識するようになったのは、彼のナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征のときらしい。1798年のことだ。

このナポレオン率いるフランス軍が撤退したとき、エジプトには混乱が生じた。その混乱を収拾するためにオスマン帝国はムハンマド・アリーという軍人を派遣する。彼はアルバニア人部隊の隊長だった。

ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任し、ここに中央集権を打ち立てることに成功する。

一気に近代化を進めるべく、経済政策と軍事政策を進め、細かないきさつはわからないので省くが、なんと自分の派遣元だったオスマン帝国から、半独立といった状態にまで持って行った。大した男である。

そして図に乗って、ムハンマド・アリー家が世襲するムハンマド・アリー朝と呼ばれる政権を確立した。

──が、当時の列強であるヨーロッパはそんなもの認めない。そして近代化では先輩であり本家であるヨーロッパ諸国に、経済的な支援を受けねばならない状況に陥っていたため、あれよあれよとヨーロッパに従属する状況になっていた。

そして老獪なフランスは、エジプトと共同でね、などと言いながら実際にはエジプトの持ち出しでスエズ運河を開通させた。

このときの財政負担が経済的な自立を困難にさせ、今度はそこにつけ込んでイギリスが進出してきた。

当然反イギリス運動(ウラービー革命と言う)が起きるが、こんなもの老獪なイギリスにあえなく鎮圧され、そればかりかすっかりエジプトはイギリスの保護国という立場になってしまった。

しかし、このようなどさくさのなかでも、エジプトの近代化は後退することはなかったようだ。

そして第一次世界大戦が始まる。

1914年、イギリスはオスマン帝国と開戦した。そう、オスマン帝国はそもそもエジプトの宗主国ではないか。

しかしイギリスの開戦相手となったためにその保護下にあったエジプトは、オスマン帝国から切り離されることになった。

このことが、大戦後にエジプト王国の成立となりイギリスに独立を認められるのだが、それはあくまで表向きで、実際にはイギリスの支配下にあった。

さて、この辺りから現代に急進する。

エジプト王国とはいっても、イギリスにならったか、立憲君主制を敷いたため、王による独裁ではなく、議会による政治を行うことになる。とにかく近代化を急がねば。

などと会議を開いている内に、もう第二次世界大戦が始まったしまった。そのころからパレスチナ問題に巻き込まれ、第一次中東戦争ではイスラエルに負けてしまう。

もう経済も悪化していく。そうなると当然世は乱れ、アラブ諸国では乱れるとイスラム勢力が台頭してくる。エジプトでもムスリム同胞団がイスラム主義を唱えるようになってくる。

これはたまらん。イスラム主義が台頭すると、近代化は進まない。1952年、こんなめちゃくちゃなムハンマド・アリー朝など倒してしまえ、と自由将校団がクーデターを起こした。エジプト革命である。

そして翌年にはさっさと国王フアード2世を廃位してエジプト共和国を成立させた。

ふーっ、ものすごく駆け足で、共和制までたどり着いてしまった。我ながらかなり荒っぽいな。

とにかくこれでなんとかイスラム主義の台頭を押さえ込んだことになるが、当然、押さえ込めば鬱憤がたまり、不満分子のエネルギーは地下に溜まり始める。この辺りのエネルギーも、今回のデモの背後にはあるかもしれない。が、まだわからないので、先を急ぐ。

エジプト革命から4年後、有名なガマール・アブドゥン=ナーセルが第2代大統領に就任する。日本では一般的にナセルと呼ばれることが多いので、ここからはナセルと表記したい。1956年のことだ。

ナセル大統領は52歳で死ぬまで急ぎ足で生きたと言える。この男、思えば自由将校団結成の立役者の一人でもあった。

彼はエジプトの外交をあくまで中立外交と位置づけ、非同盟を主張した。そして汎アラブ主義を掲げて第三世界の雄となる。

戦争も起こす。就任した途端にスエズ運河を国有化したのだ。このために第二次中東戦争が起きるが、勝利する。

2年後にシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。このときに現在の名称であるエジプト・アラブ共和国と改称した。もっともシリアとの連合関係は3年後には解消している。

そして第三次中東戦争でナセルの威信は落ち始める。1967年である。早い話、敗戦だ。イスラエルはごっつい強かった。エジプト側はシリア、ヨルダンとのアラブ連合だったが、6日で負けた。後に六日戦争とも呼ばれた。

現在のイスラエルの領土はこのときに獲得したものだ。

そして1970年に政治家としてはまだまだ若い52歳でこの世を去った。

後任のアンワル・アッ=サーダートが登場する。ようやく私が生きている時代と重なる人物の登場だ。アンワル・アッ=サーダート大統領も、日本では通常サダト大統領と呼ぶので、ここからはサダト大統領と表記する。

おぼろげながら、今回のデモの遠因らしきものが見えてきた。いやぁ、駆け足かつ乱暴に撫でた歴史とは言え、結構かかった。

ここからは第二部として投稿しようと思い、ひとまずここでアップする。
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