沖縄県民が左翼と中国の活動家に洗脳されている気がしてならない。このままだといずれ独立どころか中国に支配されるだろう。
28日に「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が行われることに対して、沖縄では反日感情が高まっているということについて先月投稿した。
『日本の独立記念日「主権回復の日」は「屈辱の日」だとする沖縄で、「中国万歳」が叫ばれている』(2013/03/08)
http://newsyomaneba.seesaa.net/article/343466390.html
さて、補助金を無心するために、常に反日感情を顔に出して、日本では仏頂面、中国訪問時は満面に笑みをたたえている支那人の仲井真弘多(ひろかず)県知事は放って置いて、本題に入る。
28日、日本政府は「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」を東京千代田区の憲政記念会館で開いた。1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効から61年を迎えた。
安倍晋三首相は語った。
「本日を一つの大切な節目とし、私たちがたどった足跡に思いを致しながら、未来へ向かって希望と決意を新たにする日にしたい」
まさに、そのような日である。ただ、天皇、皇后両陛下は出席されたが、お言葉をいただくことはできなかった。沖縄の反日運動に配慮されたのだろうか。
式典には、衆参両院議長、最高裁判所長官、都道府県知事もしくはその代理ら約390人が出席した。
仲井真弘多県知事は心が支那人であり、金にならないからと欠席したようだが、放っておこう。
また、生活、共産、社民、みどりの風の4党は欠席した。本式典を「天皇の政治利用」という子供じみた理由だったが、これも無視して良いだろう。彼らにこれからの日本を期待している人は圧倒的に少ないだろうからだ。
一国の独立記念日たる行事に参加しない政党など、何処にでも行って良し。
さて、マスコミはさかんに沖縄が反日運動で盛り上がっていることを報道している。
確かに沖縄県宜野湾市では、「4.28『屈辱の日』沖縄大会」が行われ、1万人(主催者発表なので本当かどうか不明)が集まったという。
なんでも、
「沖縄は常に切り捨てられてきた」
と、勘違いな物言いをしているらしい。こんな事が叫ばれているのは、沖縄に左翼や中国の活動家がいるからではないか、と私は考えている。
そして純朴な沖縄県民の一部は、彼らに扇動されて、反日反米を叫び、親中を叫んでいる。
なんと哀れなことか。
実行委員会の喜納昌春・県議会議長は、日本国民で有るにも関わらず、恥ずかしいことに語った。
「4月28日は沖縄が奄美、小笠原とともに日本から切り離された屈辱の日だ。(政府式典に関して)がってぃんならん(納得いかない)」
こんな恥ずかしい人物がいるから沖縄がおかしくなっていく。いや、恥ずかしい人物はたくさんいるから始末が悪い。
ただ、安倍晋三首相は、これらのバカな連中にも配慮を見せている。
「日本に主権が戻ってきた日に奄美、小笠原、沖縄の施政権は日本から切り離された。沖縄が経てきた辛苦に深く思いを寄せる努力をなすべきだ」
遠慮しすぎだ。本当の事を沖縄県民に思い出させてあげれば良いのだ。
さて、ここから先は、拓殖大学・日本文化研究所・客員教授であり、「八重山日報」論説委員長であり、沖縄国際大学非常勤講師である惠隆之介(めぐみりゅうのすけ)氏の公式サイト(
http://www.ryunosuke-megumi.com/)内の情報を参照しつつ書いて行く。
1956年6月28日。この日、国会では芦田均元総理が沖縄が無事に近代化したことに関して感想を述べている。
「米国のお陰で沖縄住民の生活は向上した。日本の統治ではこうはいかなかっただろう、戦前沖縄住民ははだしで麻袋みたいな衣装を着けて生活していたが、今では革靴をはき、背広をつけ鉄筋コンクリートの小中学校も建設されている」
何を言っているのか、追々書いて行く。
ちなみにこの国会での上記の発言は、皆が知る事実だったので、誰からもヤジは飛ばなかった。皆、「そうだ、そうだ」と頷いていたのだ。
1972年5月15日は沖縄が日本に復帰した日だ。このとき、沖縄の左翼はなんと、こう叫んだ。
「日本復帰反対」
なんたって、米国統治下の方が暮らしが豊かだった。沖縄は日本本土より高い経済成長を示していた。
沖縄の左翼新聞である「琉球新報」「沖縄タイムス」は、「4.28糾弾キャンペーン」なるものを実施中だそうな。彼らに言わせれば、サンフランシスコ講和条約は、「日本が沖縄を切った」日だったそうな。
ところがこの2紙、1950年代は全く違った。沖縄タイムスなどは、なにかというと、
「忘れてはならない、米軍の高いヒューマニズム」
と賛美し、琉球新報は当時「うるま新報」という名だったが、サンフランシスコ講和条約を祝って「琉球新報」に改名している。
なんといういい加減な連中なのか。
米軍統治下に入る前の沖縄の貧しさは半端ない。疫病ははびこり、呪術的な社会を営み、靴もなく裸足で生活し、食べるものと言えば、芋やソテツだったという。
その貧しさに驚いた米国は、靴を配給した。また、カリフォルニアの米を食べさせた。
そのおかげで沖縄人は一気に寿命が延びることとなった。
何しろ当時は日本本土の方が貧しかった。だから沖縄より21年も早く日本に復帰した奄美では餓死者が続出したため、約6万民が米国統治下にある豊かな沖縄に密航しているのだ。
では、米軍は、1945年の終戦後に沖縄にどれだけのことをしたのか列記する。
その厚い保護に、本土の人間は驚くであろう。同時に、「4.28『屈辱の日』沖縄大会」などに集まった沖縄県民は、恥を知るべきである。
米軍が1945年の終戦から沖縄が日本に復帰するまでの27年間に沖縄人に貢献するために費やした費用は10億ドルであった。
1945年4月から米軍が沖縄本島に上陸し、統治開始する。
同年5月には、米軍は沖縄全域に、総合病院3箇所、地区病院5箇所、診療所を150箇所建設し、沖縄人の健康に貢献。(ちなみに診療費は無料だった)
8月には、米軍は児童用に教科書を作成して発行した(当時はガリ版刷り)。また、沖縄の文化財収集と保護を開始している。
同月、米軍は戦災住民のために簡易住宅を建設(ここから3年間で7万5千棟建設した)
9月には、米軍が沖縄に市会議員と市長選挙の実施をさせている。また、婦人参政権も付与している。これは日本本土より半年早かった。
1976年の4月には、米軍が沖縄各地に小中学校を建設し、授業を行わせている。当然日本語で授業させた。
また同月、沖縄中央政府を創設し、日本復帰時にはこれが沖縄県庁となった。
同じ頃、米軍は沖縄議会も創設し、現在の沖縄県議会となっている。
そして5月、米軍は沖縄本島中部に、「沖縄中央病院」を設置し、同時に付属看護学校を創設している。沖縄の医療水準は一気に高まった。
1948年5月、米軍は琉球銀行を創設した。
6月にはハプニングが起きる。なんと中国軍機が石垣島の旧日本海軍飛行場に着陸し、厚かましくも「沖縄統治権の譲渡」を主張した。
しかしこれは米軍に却下され、また排除された。よかったね、沖縄人よ。
7月になると、後に恩知らずな左翼となる「沖縄タイムス」が、米軍の支援で創刊された。
1949年7月、米軍は沖縄の青年たちのために、米国留学を支援し始めた。沖縄の志有る若者の教育水準が一気に高まった。日本に復帰するまでに、1,819名が米国の大学卒業生となっている。本土では考えられない厚遇だ。
1950年5月、米軍は琉球大学を創設した。沖縄人に大学教育を受けさせようというのだから驚く。
1952年11月には、米軍は沖縄で初めてのアスファルト舗装道路建設に着工している。
1953年5月、牧港発電所が建設され、それまで200キロワットだったのが、46,000キロワットの電力供給を可能にした。
1955年11月、沖縄人の感染症を撲滅すべく、米軍は公衆衛生看護システムを開始。
1961年には米軍が金武ダムを完成させ、それまでの沖縄の慢性的な水不足を解消している。
そして1962年3月、とうとう米軍は沖縄のマラリアを絶滅したと宣言。
1969年7月には米軍は福地ダムも着工。
そして1972年5月、見違えるように近代化した沖縄が日本に返還された。当時の沖縄人の寿命は、本土を越えて全国一になっていた。
──さて、それでも沖縄県民のみなさんは、「屈辱の日」などと言うのでしょうか?